価値観やライフスタイルの変化、健康意識の高まりから、さまざまな企業がウェルビーイング市場に参入しています。そうしたなか、2024年には株式会社ブリヂストンの社内ベンチャー「ソフトロボティクス ベンチャーズ」から、ゴム人工筋肉を使った柔らかいロボット「Morph(モーフ)」が発表されました。柔らかい質感のロボットに身をゆだねることで“無になる時間”を創出するというこの新たなロボットは、人びとに何をもたらし、どこへ向かうのでしょうか。開発を手掛けたソフトロボティクス ベンチャーズ 主幹、山口真広さんに聞きました。
無目的に身をゆだね、甘えられるロボット「Morph」
――はじめに、「Morph」の特徴を教えてください。
山口真広氏(以下、山口氏):「Morph」には、自然界や動物の映像から抽出した“動き”のデータがインストールされており、ゴム人工筋肉を介して生物の胎動や呼吸、潮の満ち引きのような有機的な動きを再生します。見た目は大きなソファーベッドのような形状ですが、敷き布団と掛け布団のように上下ふたつに分かれており、体験者はその間に挟まって身をゆだねることで、目的もなく無になる状態、つまり“無目的な時間”を過ごすことができます。

――このロボットは、どういった発想から生まれたのでしょうか?
山口氏:そもそもの発端は、ロボットと人が共存する未来を作りたいという思いからです。方向性を探っているとき、「最近甘えるということをしていないな」という気づきから、大人が甘えられるロボットを作ろう、とスタートしたんです。
下の「Morph」は人間が身をゆだねて甘える方で、ゾウやバッファローなどの大きな存在のイメージ。対する上の「Morph」は人間に甘える方で、猿などの小さな動物が甘えてきているように動きます。ロボットですがコントローラーなどはなく、人に合わせて制御することはありません。どこか優しく、柔らかく包んでくれる。よく言うのは、ファンタジーアニメに出てくる大きなキャラクターみたいな存在です。ただ生物的な動きをするだけだからこそ、気を遣うことも、目的を持つこともなく、ロボットと共存する時間を過ごすことができるんです。


――体験することで、どのような効果が得られるのでしょうか。
山口氏:脳波を計測する調査によると、マッサージチェアや仮眠との大きな違いとして、体験者は集中状態なのにリラックスしている、という状態になっていることです。この状態になると知覚が鋭くなることが学術的に分かっていて、「今、ここに集中する」という禅に通じる感覚に近づきます。サンプル数はまだ少ないのですが、それがポジティブな思考を生んだり、クリエイティブになっていくという作用を生み出すことが期待されます。
――「Morph」の動きを実現している「ゴム人工筋肉」について教えてください。
山口氏:「ゴム人工筋肉」は、1960年ごろにジョセフ・マッキベンというエンジニアによって開発された「マッキベン型人工筋肉」をもとに、ブリヂストンが持つゴムの知見を掛け合わせて作られています。ゴムチューブの外側を高強度の繊維で覆っており、空気圧を掛けるとゴムが膨らむことで逆に縮むのですが、100kg程度のものを持ち上げることができるくらいのパワーがあるので、もともとはリハビリなどで人に装着するアシストスーツなどへの活用を視野に進めていました。

この技術をもとに、2021年から約100社に訪問・リサーチを行い、議論や仮説検証を進めてきました。そのなかで出てきたのが、このソフトロボティクス事業です。ブレイクスルーになったのは、縮むだけではなく“曲げることができる”という発見でした。外側の繊維の編み方を変えたり、内部に骨のように硬い部位を設けたりすることで、人間の指のように曲げることができるのです。これによって、どういった形状のものでもつかめる、汎用的なロボットハンド「TETOTE(テトテ)」が生まれました。

――何でも掴めるというのは、オーダーメイドが主流のロボットハンドにおいて、とても大きいアドバンテージですよね。
山口氏:柔らかいものから硬いもの、重い物まで何でもつかめるロボットハンドは、さまざまな業界から注目を集める結果となりました。人に依存せざるを得なかった工程の自動化を一気に進めることもできるので、特に大手自動車メーカーや物流倉庫への導入を視野に、現在も実証を進めています。
柔らかさを武器に、人とロボットが共存する未来を作る
――実用的なゴム人工筋肉から、なぜ抽象的な形状のMorphが生まれたのでしょうか?
山口氏:ゴム人工筋肉を核にしたロボティクスの可能性を考えたときに、“柔らかい”ことを価値にしていかなければいけないという課題があったことが背景にあります。人手不足などの課題に対しては作るべきソリューションは明確ですが、僕たちが本当に作りたいのは「ロボットと人が共存する未来」です。それに対しては、以前からもっともっとできることがあると思っていたんですね。
新しく作るロボットは、TETOTEのようにモノを動かすロボットではなくて、人の心を動かすものを作ろうというところが出発点でした。
――強く、速く、休まないという従来のイメージのロボットとは異なる、“柔らかい”に価値を見出す必要があったのですね。
山口氏:ホンダの「ASIMO」やソニーの「aibo」、グルーブエックスの「LOVOT」など、愛嬌を感じるロボットたちが人びとから支持されているように、僕たちが柔らかさを武器にしたロボットを作るなら、身も心もゆだねられるロボットがいい。そこで、人がロボットを使い、ロボットが使われるという、これまでの関係ではなく、「生き物なのか、家具なのか、何か分からないようなものを作れば、社会に自然と溶け込んでいくんじゃないか」という仮説を立てました。

従来のロボットアームやロボットハンドのように、人間の形を摸したものは、どうしても使役するイメージが先行してしまいがちです。だから、目指したのはボタンを押してコントロールできるようなものではなく、アンコントローラブルな動きをするロボット。ファンタジーアニメに出てくる大きなキャラクターのお腹に乗るような、無目的な時間を過ごしてもらうことが、ロボットとの共存になりえるんじゃないかと思ったんです。
――それが自然界や動物の動きにもつながるんですね。
山口氏:自然は我われにとって、いちばんコントロールとかけ離れたものです。動物園で動物を撮影したり、山に行って木々のざわめきを撮影したりと、100種類ほどのデータを収集しました。そこから最終的に15種類を選定して、自然界や動物の動きをゴム人工筋肉で再現するMorphへ踏襲しています。
また、映像データをゴム人工筋肉の動きに変換する部分に、AIアルゴリズムを採用しています。映像から動きの変化量を抽出するアルゴリズムと、そこからさらにゴム人工筋肉に送り込む空気圧を制御するためのデータに変換するためのアルゴリズムのふたつがあります。
「安心して身を委ねられるロボティクス」がこれからの鍵
――表参道や下北沢でMorphを体験できるイベント「Morph inn」を開催していましたが、体験者の反応はいかがでしたか?
山口氏:初の試みとなった表参道での開催時は、初回ということもあり、新しい技術への意識が高い方たちが興味を持って体験に来てくれました。そこである体験者から言われて嬉しかったのは、「無目的ということ自体が有益になる」ということ。つまり、世の中にとって有益なことに対するソリューションはすでに溢れているんだけれども、これから新しい事業をしていくなかで、無目的なことを有益化していくことはすごいことだ、という風に言ってくださって。この言葉にはすごく勇気をもらいました。
そうしたなかで、ウェルビーイングの方向性をより強く打ち出すコンセプトとして出てきたのが、「無になる」ということです。「Morph」の有機的な動きに身も心もゆだねていると、実感値として無になる瞬間があるよねと。サウナの“ととのい”や禅にも通じる無の時間、その前後も含めてMorphの体験を設計していくことで、無の価値を最大限に感じてもらえるようになると考えました。

そうして生まれたのが「無前」「無中」「無後」という概念です。無の前、つまりMorphの前には無の時間を「深める」「冴える」2種類のドリンクを。無中には視覚・聴覚・嗅覚を刺激するバーチャル森林浴を。無後には無を締めくくるカクテルや、仕事ができるワーキングスペースを。無になる価値を追求した、よりリッチな体験を実現することができました。
――今後、さまざまなかたちで展開ができそうなコンセプトですね。
山口氏:春に控えているミラノデザインウィークへの出展をきっかけに、フランチャイズ化や海外展開も視野に入れています。Morphのコンセプトは無になったことがある人に刺さりやすいと思っていて、やはりウェルビーイングが進んでいる海外にも目を向けるべきだと考えています。柔らかいロボットを軸にしたメディテーションの方法論として世界各国に日本から発信していけたらいいなと思っています。
――ウェルビーイングという観点でのロボティクスの現在地、そして今後に予想される展開があれば教えてください。
山口氏:多くのウェルビーイング関連の新規事業では、まずセンサーでデータを取得し、それをAIで分析・カスタマイズするというアプローチが一般的です。しかし、最後の「介入」の部分――つまり、取得したデータをどのように活かし、どのように人の体験に影響を与えるかについては、多くの企業が「個人の判断に委ねる」ようになっています。

一方で、僕たちのMorphは、直接的な介入を行うという点が大きく異なります。触覚を通じてユーザーにアプローチすることで、「何も考えなくてもリラックスできる環境」を提供できる。無前・無中・無後という新しいコンセプトが生まれた背景には、マーケットがこの「介入」の価値を求めていたという側面があります。なので、「安心して身を委ねられるロボティクス」という新しいあり方は、今後ウェルビーイング領域でますます求められていくと考えています。
――最後に、AIやロボティクスの技術に期待することがあれば教えてください。
山口氏:最近よく感じるのは、AIに対するイメージがディストピア的なものに偏っている、ということです。映画やクリエイティブの世界でも、未来を描くときにディストピア的な要素が強調されることが多い。しかし、そうではない「良いシンギュラリティ」というものがあるのではないかと考えています。
もしかすると、それこそが人とロボットが共存し、協働する柔らかな社会や未来の姿なのかもしれません。もちろん、誰もディストピアを望んでいるわけではありませんが、AIが人間の知能を超えていくことに対して漠然とした「怖さ」を感じる人は多いでしょう。
一方で、柔らかいロボティクスのような存在は、そうした未来とは異なるアプローチを提示できます。AIが生産性や効率性を高めるために使われることが主流となっている現代において、「人間性を回復するためのシンギュラリティ」が生まれるとしたら、それはとてもおもしろいのではないか……。最近、そんなことを考えています(笑)。

株式会社ブリヂストン
ソフトロボティクス ベンチャーズ 創業メンバー / 主幹
山口真広 氏
青年海外協力隊等でのアフリカにおける活動を経て、大手総合化学メーカーに入社。マラリア撲滅事業に携わる。国内外における新市場開拓、異業種との共創等の新規事業の立ち上げに従事。2018年にブリヂストンへ中途入社。2021年より同社初の社内ベンチャーであるソフトロボティクス ベンチャーズ創業メンバーとして、産業・物流、ウェルビーイングのふたつの事業ポートフォリオでソフトロボティクスの事業化を推進中。