猫は、体調不良を隠す生き物だといわれています。飼い主が異変に気づいたときには、病状が進行しているケースも少なくありません。そうした「言葉を話せない家族」のSOSを、AIの力で可視化する挑戦があります。株式会社Carelogyが開発・運営するスマートフォンアプリ「キャッツミー」は、猫の顔写真を撮るだけで、AIがその表情から「痛み」の兆候を検知。日本大学生物資源科学部獣医学科との共同研究に裏打ちされたその技術は、すでに世界50カ国以上で30万人を超える飼い主たちに利用されています。開発の経緯や想い、ペットと人間の未来の形について、代表取締役の崎岡豪さんに聞きました。
人の医療から猫の医療へ。規制の壁が生んだ、世界初の挑戦
——Carelogyはどのような経緯で設立されたのでしょうか?

崎岡豪氏(以下、崎岡氏):「もともと私はペットとは全く関係のない仕事で、アメリカの企業で主にヘルスケア領域の企業買収などを行っていました。そのなかで、日本と海外のヘルスケアにおける技術格差が非常に大きいことに気づき、そこにビジネスチャンスがあるのでは、と考えたのが起業のきっかけです。
その際に声をかけたのが、中学と高校の同級生で現CTOの河本直樹です。彼は医師でして、当初は” 人間の医療AIの会社を作ろう”ということで会社を立ち上げたんです」
——人間の医療AIから猫のAIへと方向転換されたのは何故ですか?
崎岡氏:「実際に進めていくと、例えばレントゲン画像一つとっても個人情報保護法が絡んでくるなど、厳しい規制の壁にぶつかってしまいました。なかなか難しいなと思いながらも悪戦苦闘していたところ、たまたま日本大学獣医学科の枝村教授と知り合う機会がありました。
教授とお話しする中で、『体調不良の猫のうち70%は動物病院に行けていない』といったデータがあることを知り、そういった課題をテクノロジーで解決できないかと考えるようになりました。そこから猫の表情を分析するAIの開発に着手し、研究を進めるうちに精度が96%程度まで向上。専門家からも『医療的な水準レベルまで高まったAIだ』というお墨付きをいただき、プロダクト化するために『キャッツミー』を立ち上げました」

——人間の医療分野に対して、新しい技術を導入するにはまだまだ課題が多そうですね。
崎岡氏:「はい、新しいサービスという側面ももちろんですが、それが法的な規制によるものなのか、業界の慣習なのかは分かりませんが、とにかく“アナログ”な印象が強いです。
海外、特にヨーロッパや北欧では、日本が今やろうとしているマイナンバーカードと保険証の一元化のような仕組みは、もうずっと以前から導入されています。そうした状況を目の当たりにすると、やはり大きな差があるなと痛感しますね」
——その点、キャッツミーを開発されるなかで、重視した理念や考え方はなんですか?
崎岡氏:「人間の医療もそうですが、獣医療も少しブラックボックス化していると感じており、そこをどうにか打破できないかというのは、常に考えています。
特に猫や犬の獣医療は自由診療なので、1回病院へ行くと2万円、3万円とかかってしまうことも珍しくありません。でも、その治療方針に対する納得感というのは『お医者さんが言うのだから、よく分からないけれど正しいのだろう』と考えざるを得ないのが現状で、そこが問題だと思っています。飼い主さんが納得感を持って医療を受けるためには、やはり深い理解が必要です。
私たちの会社では『医療情報の民主化』を掲げ、その一環として、高度な医療的バックグラウンドを持つAIを基本無料でリリースすることで、その課題解決に貢献できればと考えています」
精度95%超。専門家の“暗黙知”を学習したAIの仕組み
——改めて、「キャッツミー」はどのようなアプリか教えていただけますか?
崎岡氏:「はい。キャッツミーは、『猫のSOSを見逃さない』をコンセプトに、95%以上の精度で猫の痛みの兆候がわかるAIを搭載した無料のアプリケーションです。
一部有料機能もありますが、基本的には全て無料で使えるサービスです。私たちの会社の理念として、一部の専門家だけが持っている知識をテクノロジーに落とし込み、誰もがアクセスできる世界を作りたいという思いがあります。『うちの子、体調が悪いのかな?それとも機嫌が悪いだけなのかな?』といった飼い主さんの疑問に対して、家庭内で医療的な判断の一助となるようなサービスを提供したいという思いで、全世界にリリースしています。

猫の顔写真から体調リスクを測る、というシンプルで分かりやすいコンセプトが受け入れられ、世界中で使っていただけているのが、私たちのユニークなポイントだと考えています」
——すでに世界50カ国以上、30万人を超える方に利用されているのですね。
崎岡氏:「はい。ベータテストの期間も含みますが、現在、世界50カ国以上でユーザー数は30万人を超えています。もともとはウェブサービスとして提供していましたが、最近アプリでのダウンロードも可能になり、規模感も増えています」
——サービスの根幹であるAIの技術的な仕組みについて教えてください。
崎岡氏:「まず、猫の痛みの表情の定義に関しては、カナダのモントリオール大学が発表している『Feline Grimace Scale(フィーライン・グリマス・スケール)』という、顔の表情分析の指標に関する論文に基づいています。
その上で、日本大学獣医学科の猫の専門医の先生に、数千枚の猫の画像を論文に基づいて0点から10点満点で定量的にラベリングしていただきました。
そのラベル付けされたデータをもとに、まず『痛みがあるか・ないか』を判断する分類AIを作りました。私たちのユニークな点はここからで、『痛みがある』と分類された場合、もう一段階AIをかませます。痛みがあることを前提として、『その痛みの可能性が高いか・低いか』を判断するんです。ですので、出力結果は『痛みなし』『痛みの可能性が低い』『痛みの可能性が高い』という3パターンで出てきます。この2段階の分類器を組み合わせている点が、他にないポイントだと考えています」
——実際に使われたユーザーからの反響はいかがでしたか?
崎岡氏:「とてもポジティブな声を多くいただいています。特に印象的な例として、南アフリカのユーザーさんの話があります。その方は、面白半分で使ってみたら『痛みあり』という判定が頻出したそうなんです。そんなはずはないと思っていたら、その3日後くらいに猫が急に動かなくなったと。病院へ連れて行ったら、実は後ろ足に外傷があり、強い炎症を起こしていたことが分かりました。その方からは『キャッツミーだけがそのサインに気づいてくれた』という言葉をいただき、本当にやっていて良かったなと思いました」
——痛み検知以外にも、日々の健康管理に役立つ機能があるそうですね。

崎岡氏:「はい。ただチェックするだけでなく、日々の体調などを記録できる『体調ログ機能』も備えています。今後は、蓄積したデータから健康に関する具体的なアドバイスや予測をプッシュするような要素も今後は加えていきたいと考えています。そのバックグラウンドには、非常に厳格な獣医学的知見がある、というのが私たちのサービスの強みですね」
“ペット×AI×グローバル”が生む巨大市場。キャッツミーが描く未来図
——世界的に見て、ペット業界におけるAIサービスの潮流をどう感じていますか?
崎岡氏:「ペット市場全体を意識しておく必要があると思っていて、そもそも、例えば『自然派のペットフード』や『スマート首輪』といった製品は、世界中で類似ビジネスが乱立しており、究極的なレッドオーシャンだと認識しています。ですので、私たちは誰もやっていないこと、『初めてであること』を戦略的に意識する必要があると思っています。
その上で、ペットヘルスケアにおけるAIの活用という点。こちらは、まだまだ浸透していないと感じます。現在『AI活用』を謳っている製品の多くは、実態としては与えられた数字をグラフ化しているだけで、私たちが考えるAIとは異なります。私たちが考えるAIの理想的な活用法は、猫の微細な表情の変化のような、専門家でなければ分からない『暗黙知』をAIに学習させ、誰もが使えるツールとして提供することです。そういう意味では、これからもっともっと多彩なサービスが出てくるはずです」
——今後のサービス拡充や展望について教えてください。
崎岡氏:「まず、アプリを深く掘っていく縦の展開としては、ChatGPT系のAPIなどを活用し、記録されたデータからより深いインサイトを出せるようにしたいと考えています。私たち独自の予測AIも加えて、未来の猫の飼い方のスタンダードを私たちが作っていきたいですね。
次に横の展開として、私たちのサービスは猫を直接治すことはできないので、動物病院へ行くハードルを下げる取り組みを進めたいです。例えば、提携している動物病院の紹介や、金銭的なハードルを下げるための保険商品などを考えています」
——そうした今後の事業展開における最大の課題は何でしょうか?
崎岡氏:「まずはこのサービスを、本当にグローバルなサービスへと成長させなければならないと考えているなかで、私たちが今一番大きな壁だと感じているのは、『日本企業は世界で戦えないだろう』という意識が国内に蔓延していることです。
世界の猫は約6億頭いるのに対し、日本はたった800万頭です。まずは世界中で使われるサービスに成長させることで意識を変えていかなければいけない、というのが大きなミッションです」
——個人向けだけでなく、法人向けの展開も考えているそうですね。
崎岡氏:「はい。『キャッツミー』は現在個人向けサービスですが、実は保護猫団体やペットショップなど、複数の猫を事業として扱っている方々からも、AIを有効活用したいという声を多くいただきます。そこで、事業者向けにAIを組み込んだ管理ツール、いわゆるB2B向けのSaaSとして新たにリリースし、こちらもグローバルで展開していきたいと考えています。『ペット×AI』はニッチに見えますが、そこに『グローバル』という要素が加わると、一気に巨大な市場になると考えています」

——AIは、ペットと人間の関係をどのように変えていくとお考えですか?
崎岡氏:「私たちが変えるというよりは、“すでに変わりつつある潮流を、より強く後押しする”というのが正しいかもしれません。その潮流とは『ペットの家族化』です。
最近はペットにかける愛情もお金も増えていますが、言葉を話せない彼らが何を考えているか分からず、なんとなく心配だ、という大きな壁があります。私たちは、そのコミュニケーションのギャップをテクノロジーで少し繋ぐことができたと考えています。そこをもっと強化していくことが、今後の目標でもあり、他の分野も含めて、推し進めていくべきことなのだろうと思っています」
——最後に、昨今の生成AIの急速な普及をどのようにご覧になっていますか?
崎岡氏:「AIはすでに日常に浸透しているのだと思います。そうした中で、いわゆる『汎用型AI』はテックジャイアントが牽引していくでしょう。それに対し勝ち筋があるとすれば、私たちのように、ユースケースを限定した『特化型AI』であると考えています。用途を絞ることで、汎用型よりも高い精度と優れた体験を提供することができる。今後は、汎用型と特化型で、ある程度すみ分けが進んでいくのではないでしょうか。私たちはペット領域にさらに特化し、“なんとなくみんなが想像している未来の猫の飼い方”というのを実現していきたいと思います」
株式会社Carelogy 代表取締役 崎岡豪氏
慶應義塾大学 経済学部卒業後、米系戦略コンサルティングファームに約2年間在籍。ヘルスケア領域を中心にクロスボーダーM&Aの支援、人事戦略策定、事業戦略策定など幅広い業務に従事。2021年2月、株式会社Carelogyを創業し、猫の顔写真を撮るだけで、AIがその表情から「痛み」の兆候を検知するスマートフォンアプリ「キャッツミー」をリリース。